描いてる途中でしょうが

描いたやつの写真と、描きながら、描いたあと、考えたこと

そうだ!今こそ目的を遡れ!!

他人から頼まれて、おう、朝メシめえだ、任しときな、つって颯爽と手際よく直ちに取り組み、なんてなことあありゃしねえよ、お茶の子さいさい、しゃしゃっと済ませといたから。じゃあまた。てのは、引き受ける立場としては、一つ、理想形だ。

だがしかし。だがしかーし。駄菓子貸し。
場合によっては、その、しゃしゃっと感を出さず、もっとこうヌルッと感を出した方がいい案件もあると。こう。思うのです。ですです。思うです。
その、場合ってどんな場合よ。ていうと。
例えば広告のデザインを、自分が、デザイナーとして請け負った時のことを考えよう。
「めっさ甘甘だんご」と言う商品名のスイーツの車内吊り広告の話としよう。

で、ラフに対するクライアントからのフィードバックで、「あ、この商品名の文字。めっさ甘甘だんごの色、緑じゃなくて赤にしてもらえません?」なんつって言われたとする。
これを、しゃしゃっと感で対応すると、直ちに緑の文字色を赤に変更し、できあしたーつって提示し、お仕事完了となる。であればいいのだけれど、大抵の場合は、そうはいかず、「あれ、なるほどー、こういう感じかー。ちょっと、赤きついかなあああ、もうちょい落とせます?た・と・え・ば、紫系?」とか返ってくる。で、紫に変更すると、またあーじゃないこーじゃないと延々続き、気がつくと時間だけ過ぎてて仕事が完了していない。

この不毛なやりとりを避けるために、何が必要かというと、そう、ずばり、目的を明確にすることだ。だー、だー、だー、(エコー)
めっさ甘甘だんごの場合でいうと、「なんで、文字の色、赤にしたいん?」と問う。すると、先方は、「いや、なんとなく」とか、「もっと、目立たせたいんですよね」とか、「甘甘なイメージを訴求したいんすよね」とか、「とにかく社長がそう言ってるんすよね」とか、言ってくる。
目立たせたいなら、赤じゃなく金かもしれないし、文字色の変更じゃなく背景色の変更の方が効果的かもしれない。
甘甘なイメージの訴求なら、甘甘をイメージさせる写真を加えた方がいいかもしれないし、糖度を数値で示した方が分かりやすいかもしれない。
社長の意見なら、社長になぜ赤なのか聞いた方がいいかもしれない。
ただ、なんとなく言ってるなら、その担当との仕事は断った方がいかもしれない。
そうつまり、目的によって手段は変わるのだ。だー、だー、だー、だういいいいん(エフェクト)

もっと言えば。
なんで商品名が、めっさ甘甘だんごなのか、なんで車内吊り広告なのか、あたりまで遡り、この広告に期待すること、この商品のコンセプト、売り上げ計画・目標、広告戦略、予算というように目的を遡って、めっさ甘甘だんごの真髄を理解した時、たぶん、文字の色は何色であるべきかを、担当に、なんなら社長に、どどん、つって、発射し、了承と信頼を獲得できるのですよ。ですよー、ですよー。

ただ、しゃしゃっとやるべき時も、それはそれで当然あって、洗濯物畳んどいてって言われて、それはなんでですか?洗濯物を畳んでもらいたい、その本当の、真の目的はなんですか、洗濯物が畳まれたその先の未来に何を見ていますか。洗濯物が畳まれないことで付随するあらゆる状況の変化について、どうお考えですか。洗濯物ってなんですか。とか言っていると、この人はただただ洗濯物が死んでも畳みたくない人なんだ、もうこんな人とは生活できない。息子二人を連れて実家に帰ろう。別居しよう。離婚しよう。と思われる。それは悲し。大変だ。避けたい。

結に「知らんけど」を付けると決めて喋り出すと饒舌になる

喋ったあとに、結に、付け加えたくなる言い回しがある。
最近のヒットは、「知らんけど」で、これを付け加えることで、その直前までの内容に一切の責任を負う必要がなくなり、気が楽になる。喋りながらも、最終的には「知らんけど」つけるから、まあ確証もなく信念もなくとりあえず喋っておこう、つって、気負うことがないので喋りやすい。
あんたに惚れた。俺について来い。いや、俺がついていく。な、二人で幸せになろう。いや、俺が幸せにしてみせる。知らんけど。
どどん(知らんけど。が、決まった時の効果音)

そんで、さっき見つけた、結につけたい言い回しが、「風流だね」で、これも、これさえ付けておけば内容のあることは何も言ってないのに、何か深い考察が、まあ、確実にあるとは言えないまでももしかしたらあるかも、ぐらいに感じさせる。
急がば回れって言うけどさ、急いでるんだから最短距離で行きたいわけじゃん、やっぱさ、俺もさ、俺だってさ、だってそうじゃん。そんで、回れって言うわけでしょ、なんかね、なんだろなあ。風流だね。(イメージは、バイキングのヒロミ)

どどん(風流だね。が、決まった時の効果音)

愛の言霊

世界人類が平和でありますように。いや、人類に限らず類人猿とか、もう、哺乳類とかまで平和でありますように。
あそうだ。爬虫類もまとめて、ひっくるめて。二足歩行は当然として、四足歩行も平和でありますように。
ああ、そうなってくると、虫とかがあぶれちゃうか。足、六本あるもんなあ。じゃあ、歩行関連各位が平和でありますように。としよう。
あ、やべえ、魚類忘れてた。魚類が、魚類だけが戦争しちゃうなあ。
歩行関連各位が、あと、魚類も、平和でありますように。

あと、平和でありながら、尚且つ、夢が叶いますように。つまり、歩行関連各位と魚類の平和が維持されつつ、追加で、夢も叶う。ていうのをお願いしたい。
平和っていうのは、そう、これ、穏やかな時が経過するってことで、具体的に言うと、しこたま飲んでも、飲んでも、飲んでも、朝、頭が痛くないようなことを平和と言う。もうそれで十分。にも関わらず、追加で夢も叶えるって言うから、これ、まじで、あれだ。

と言うのも、言霊という考え方があり、ダメかも知らんけど、ダメだダメだ、糞だ、最悪だ、死んだ方がいい、殺せ、と悲観的な否定的なマイナス方面の発言、発信をしていると益々そっちの暗黒面への、所謂、ダークサイドへ誘われ、引き込まれ、真っ黒に染まる。一方で、逆に、ダメかも知らんけど、いいねえ、夢あるねえ、きゃないきゃないやるっきゃない、最高、平和、安全、達成、成就、縁起がいい、すごくいい、つって、やった方が、いい。
状況としては、ダメだったにも関わらず、ポジティブな発言は、それ自体が言霊となり、目視できないものの、それは、言霊は、ふわふわと空中を漂い、人や物や場所や、なんやかんやをいい感じ方面に引っ張る。
逆に、ネガティブな、ダメだ死ぬと言えばそれも同じように言霊となり発射され、ふわふわ漂ったのちにそいつに殺される。
と言うことは、これまでに自分に降りかかってきていた大小様々な不幸の要因は、自分から発せられた、どうせダメだ、糞が。といったようなネガティブ発言を梱包した言霊のせいで、これは直ちに改正する必要がある。
と言うことで、冒頭発したように、記載したように、テキスト化したように、超絶ポジティブな平和願望がさっき言霊になったわけで、俺にこのあと大吉的なイベントが発生する確率が高い。
とか言いながら、今夜も酒を飲んだ。
ちゃうねん、ちゃうねん、
最高やな、最高やな、一つ飛ばして、最高やな
マジカルラブリーとアルコ&ピースの関係性、最高やな

足裏を揉んで腰痛を治す。ゴルフボールを踏む

腰痛。Yo!Tune!つって、腰が痛い。
これはもう痛みが押し寄せる時期が来たかと思うと、何が原因かよくわからないままに引いていくことがあり、そのことに一喜一憂していると、疲れるので完治することは諦めて、夢を諦めて、下手に機嫌を損ねるようなことをしないように静かに付き合ってくことに決めた。

腰痛とともに生きる。
生きて~る 生きている~ つって、竹原ピストルの歌を背景に腰の痛みに耐えるおれ。いたたたたた、つって、コタツから這い出て台所に焼酎を取りに行くおれ。生きて~る 生きている~ つって。

と、何気なく、鼻くそほじりながらテレビ見てたら、出演していた針灸師のおっさんが、飯食いながら床に転がしたゴルフボールを足で踏んでいて、足裏をほぐしておけば、いい感じっすよ、これまじで、腰とか。みたいなことをドヤ顔で言っている。
その番組は、そのおっさんが終始ドヤ顔で、だって、信頼と実績があるんですもの、そりゃドヤ顔にもなりますよ、と、おっさんの信ぴょう性をぐんぐん高める構成で、このおっさんが言うなら足裏のマッサージでも、ひとつ、モノは試しやってみるか、と思わせる番組内容だった。

で、足裏をグリグリしたおした。
そんだら翌朝、腰の調子がいい感じで、いい感じな感じがして、あれ、これ、いいんじゃね、つって、いい感じだ。

こないだ、坐骨神経痛は自分で治せる!みたいなタイトルの本を図書館で借りてきて、読んだ。
腰痛、および坐骨神経痛とはなんぞやから始まり、原因や、重症化へのプロセス、症例、事例の紹介、ありとあらゆるストレッチの図解が掲載されていて、これで夢は叶うと期待した。が、夢は叶わなかった。
ところが、足裏のマッサージは自分には合っていて、完治とまではいかないけれども、なんとなく楽にはなっている。

なので、早速、今週末にでも、机の足元に敷くマットをニトリに買いに行こう。そして、そこにゴルフボールを転がして、踏もう。常日頃踏もう。

犬派 猫派

ラクダ派か、猫派か、どっちの派閥に所属するつもりか。と問われれば、圧倒的猫派と返答する。
ラクダ派としての活動が具体的にイメージできんもんで。消去法と言ったら同じ猫派の人たちに悪いかもですけど、正直、そうで。そういう意味じゃ、圧倒的猫派は言い過ぎか。だもんで、単なる猫派に訂正します。圧倒的とまでは言えないただの猫派と返答する。

これが、犬派か、猫派か、どっちの派閥に所属するつもりか。と問われれば、少し考えて猫派と返答する。
犬も犬で素晴らしい。わんわん吠えて、投げたボールを追いかけたりして可愛らしい。尻尾をふって、いかにも俺のことを好いているようで、自尊心が満たされる。自己肯定感が高まる。
だけれども、猫と比較すると。犬も犬で素晴らしいんだけれども、総合得点では猫に劣る。
見た目の、外見の、デザイン的な観点では、まあ、種類によってまちまちであるということもあり、ドローとして、その仕草というか、主義というか、生き様というか、ライフスタイルというか、何というかそういう部分で、猫が勝る。

猫は、人に依存せず、自由に、好きなようにしているように見えて、憧れる。

ということはあれだ。犬に現在の自分の、サラリーマンな自分を投影しているのかもしれない。
わんわん吠えて尻尾をブンブン振り、言われた通り、遠くのボールを一目散に追っかける毎日。ボールなんかシカトして日向ぼっこしたい。と。
なんてなことを言うと、これ、犬からすると、お前のように嫌々ボールを追っているのではなく、俺は、犬である俺は、好きで、もう大好きでボールを追っているのであり、社畜的なやーつと一緒にされるのは心外だワン。と吠えられそうだ。

時間がたつと、状況が変わる

人間は悩む。
結婚してるのに別の女性が好きになって悩み、仕事が大量に積み上がって悩み、仕事が無くて悩み、ラーメンかつけ麺かで悩み、大盛りにするか悩み、そばかうどんかでも、結構悩む。

何をどう事前に備えてもこれら大小の悩みから逃れることは不可能で、もう、諦めて悩むしかない。
悩むと心が重くなり、平常ではいられず、テレビやなんかを見てても笑えず、ユーチューブなんかを見ててもやはり笑えず、平常であればきっと笑っていたであろう、かまいたちのユーチューブチャンネルでYahoo!知恵袋かまいたち関連の質問に本人らが答える動画なんかを見てても笑えず、辛い人生になる。

ところが、人生はそんなに捨てたもんじゃ無く、悩める人に朗報がある。
実は、すべての悩みに効く特効薬が全人類にもれなく提供されている。やったー。そう、それが、時間だ。

驚いたことに、全ての悩みは時間が経過すると解決されることになっており、更に全人類に共通して時間は経過することになっており、もう、人類は無敵だ。全人類の時間は経過すると約束された今、全人類の全悩みが解決されることが確約されたということになり、人類は完全に勝利した。
全人類の全悩み、解決、確定。
まあ、悩みによって解決までの経過時間は、尺は、まちまちなので、各々、解決までの時間をやり過ごして、なんじゃかんじゃする必要はあるけれど、ま、どうせそのうち解決するのだから、固いこと言わず気長に待ってればいいと思う。

ところで、時間の経過といえば、問題に対する回答の問題があって、例えば。
痛風なんすけど、どうしたらいいですか?」の超難問に対しての答えが「ビールを焼酎に変えれば、モーマンタイ」であったにも関わらず、時間が経過すると、同じ問題でも回答が、「アルコールはなんでも取り過ぎたらダメだよ」に変化する。
これは、もう、コールセンターにクレームの電話を入れたい問題で、こないだまでいいって言ったじゃないですかーって、オペレーターに怒鳴り散らし、最後には泣きつくけど、オペレーターもバイトで特にクレーム対応自体に熱い情熱はなく、渡されたQA表に沿って受け応えすることしかできず、次第にクレーマーの、俺の、熱も冷めて電話を切る。

あ、あと。時間経過の話で言えば、情熱の問題がある。例えば。
こんな感じの絵を描きたいと思う。だけれどもそれを思いついたのが、近所の人と自治会を抜けたい抜けないで欲しいの押問答の真っ最中だったとする。
当然、いやマジで、申し訳ないんですけど、抜けます。自治会。つって言いながらおもむろに描きたい感じの絵を描き始めると変人だと思われるので、変人だと思われるのは嫌なので、絵を描くのは我慢して、また、いやマジで、抜けます、自治会。とか言う。絵を描かずに言う。
で、なんとか、自治会を抜けることを了承してもらって、家に入り、すぐ絵を描くかというと、そう上手いことは行かず、雨が降ってきから洗濯物を取り込まねばならず、なんつって、絵を描かずにどんどん時間は経過する。
で、何が起きるかというと、恐ろしいことに、描きたい!と思ったあの時の情熱は薄れ、描かなくてもなんとも思わないようになる。なんなら、描くのめんどくせと思うようになる。
ということは、つまり、情熱が湧き上がった時こそが唯一のチャンスで、それを逃してはならない。
自治会を抜けながらでも、その場で、描かねばならない。
時間の経過は、悩みを解決するし、情熱を奪ったりもする。知らんけど。

飲酒と表現

酒飲んだが最後、SNSを開いちゃいけないよ。開いたら最後、翌朝目が覚めた途端に後悔に苛まれ、その日の朝だけで済めばいいけど、一生ものの後悔になるかもしれんだものね。と、常日頃から己に言い聞かせている。
それなのに、不思議なもんで、酔うと、見たくなるのがSNSで、見るとこんだ、普段はそんなことはないのに無性に発信したくなる。そうなったら最後、発信しないと気が済まないので、やっぱり発信しちゃう。そんで翌朝、恥じる。この繰り返しだ。

飲酒に伴う体や心の変化には段階があって、ほろ酔いから始まり、やや酔い、なか酔い、酩酊、おお酔い、めが酔い、へべれけ、ぎが酔い、ベロベロ、おに酔い、泥酔、鬼畜、終了、漢、兄貴、と徐々に脳味噌の痺れ具合が強くなる。
これが、ほろ酔いぐらいならSNSしてても、ちょっと口数が増えるぐらいで問題はないが、これが、おお酔いぐらいからは問題が発生する。

映画などを鑑賞していても、やや酔いぐらいだと素面で観るより心が動き、心に刺さり、泣いたりなんかして視聴後に爽快な気分になったりするが、これが、調子こいて泥酔するともう物語を追えず、主人公が熱く語りかけているこのおっさんは誰だ?いつからそんな切羽詰まっていることになっている?そもそもの目的ってなんだっけ?つって訳が分からず、全く面白くない。

それは、絵を描くときも同じで、飲みながら描くと素面で描くより楽しい。考えることなくどんどん進む。線に迷いがなく、発想はじゃぶじゃぶに溢れかえり笑いが止まらず、ちょーうけるーっつって、酒も進む。で、おお酔いを通り越して鬼畜ぐらいで気を失う。そうすると、これも、他の場合と同じで、昨夜描いたやつを翌日見直すと、大抵はダメで、まあ雑だ。(たまに、いい感じのもあるけど)。

というわけで、酒を飲んだら、見たり聞いたり受け身に徹し、決して、何かを表現してはいけない。したとしても、人様に向けてはならず、一旦翌朝になるのを待ち、素面の自分のチェックを受けて後に発信することと心得よ。自分。